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(思想・真理3:『2006.09.11.:ハッピーバースデー』)

 
 
年に一度、こうやって、ヒトの命について真面目に考えるのは大切だと思う。
そりゃ、毎日そればっかり考えてたらおかしくなるかもしれない。
だけど、とても大切なこと。
 
今年は、ドタバタしていて8月15日に何も考えられなかったから。
やっぱり世界の平和に対して大切なこの日に、思うことを書いておきます。
 
これは19歳の私の、小さな想い。
 
↓  ↓  ↓
「ハッピーバースデー」
 
9.11。この数字の羅列に、全世界の多くの人が反応すると思う。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件。
約3000人の死者を出した、最大で最悪のテロ。
 
今日からちょうど5年前のその日、確か私はまだ中学生で、学校から帰ってきたら親がニュースを見て騒いでいるのを「?」とただ見つめているだけだった。あまりに突然で事態がよくわからなかったのだ。
ただ、泣いている人たちの映像を見て、人がたくさん死んだんだということと、これが現実ということだけは、わかった。
 
 
それには宗教的な啀み合いや、石油を欲しがる国と国のぶつかり合い、もっともっと色々なことが関わっている。
真実は未だ追われている真っ最中であるが、このテロ事件がイラク戦争の火種になったことは間違いない。
 
私には、政治的知識は一般人ほどしかない。
だから、それについて詳しく語ろうとは思わない。
 
だけれども、その事件で3000人以上の人が亡くなったことは数字を見て理解しているし、そのあとのイラク戦争の映像は、もう見たくないと何度思ったものが流れたかわからない。
 
 
 
そんな今の私が思うのは、
「人間、いつそういうことに巻き込まれるかわからない」
ということである。
 
今、自分が生きているということに、最大の幸せを感じて欲しい、ということ。
 
 
 
 
  ◇
 
私はこの春、大学生になった。
18年間、親にべったりだった私がいきなり東京で独り暮らしである。親の心配も最もだが、私も自分自身にとても不安があった。
そして、女子としか満足に喋れなかった私が飛び込んだのが、工業大学。
男子率9割以上という環境も、不安に拍車をかけた。
 
そんなとき、1人の人と出会った。
その人は、同じ学科の先輩で、息をすると同じぐらい自然に周りに気を使える人。
「下向いて悩むぐらいなら、前向きゃいーじゃん」
そう、笑いながら言える人だった。
 
その人は後に私の「サークルの先輩」にもなるのだけど、それはまた別の話。
 
 
私はそれからの毎日が楽しかった。
クラスの1人しかいない女の子と喋り、まあまあ男子ともうまくやり、毎日ヘトヘトに疲れて眠る。
笑って笑って笑いまくった。
こんなに楽しいなら、受験勉強もあって然りだな・・・、そう思えるほど。
 
 
 
 
そんなある日、ニュースが飛び込んできた。
確かどこかの高速道路でバイクと自動車が正面衝突したニュース。
その現場が、栃木だったのだ。
 
栃木というのは、私の兄が今働いているところ。
兄は無類のバイク好きで、よくバイクを改造していたし、それを乗り回して遊んでいた。
最近オークションで買ったバイクの調子が悪いと嘆いているのも知っていた。
 
そのニュースを聞いて、体がブルリと震えるのがわかった。
「まさかお兄ちゃんじゃないよね?」
そんなうちの兄に限ってまさか、とかいうような感情が胸の内を支配する。心のどこかでそんなはずがないと思いながらも、不安は消えなかった。
 
結局、兄ではなかった。
 
 
私は本当に本当に安堵した。
そして同時に思った。
 
この事件の当事者がもし兄だったら、もう兄はこの世にはいないということ。
そして、それに気づくのは、兄がいなくなってしまってからだということ。
 
事件が起きることを私は予期できないし、兄が死にそうになって助けを呼んでいてもそこにいない私には気づけない。
 
これが、離れて暮らしているということ、だった。
 
 
 
 ◇
 
私の19歳の誕生日は6月にきた。
サークルの先輩たちというのは面白いもので、誕生日を熱烈に祝ってくれた。
まあ、女子の少ない学校で、しかも今年入った女子2人のうち1人だったからだろうけど。
それでも、私はこんなにも他人に祝われた誕生日は・・・記憶になかったから、死ぬほど嬉しかった。
 
 
私は誕生日が大好きだ。
 
去年、確か友達にも言ったような気がするのだけれど、
要するにその日はその人がその年齢だけ前に生まれた日なわけで、そのときその瞬間生まれてなければ此処にいないわけで、
数々の重なった偶然を思って感謝せずにはいられない。
出会えてよかった、そう思える人が多すぎて、私は誕生日の度に、生まれてきた奇跡を思わずにいられないのだ。
どうして、誕生日を忘れられる?
どうして、そんなの覚えられないなんて言える?
私はどうしても好きな人の誕生日を覚えてしまうし、その日を特別に感じずにはいられない。
約20年前のその日の神秘を感じずにはいられない。
 
私が今幸せだと言えるのは、きっとその人たちが生まれてきてくれたからだから。
 
もし、私と似たような感情を私の誕生日に少しでも感じてくれたなら、私はそれがどんなものよりも嬉しい。
 
「生まれてきてくれて ありがとう」
 
私はどうしてもその言葉を呟いてしまう。
 
「生まれてきてくれて ありがとう
 今日ここで生きていてくれて ありがとう
 
 それが私の幸せだよ」

 
 
 ◇
 
でも、その人が側にいないことがある。
 
それが、離れて暮らしているとき、だ。
 
 
アメリカに行ってしまった息子を母親は一体どういう気持ちで見送っただろう。
誰が、9.11のような事件が起こると思ったのだろうか。
確かに、そんな事件が起こるとは思っていなかっただろう。
だけど、「もしかしたらもう二度と会えないかも知れない」という、胸を締め付ける痛い可能性が一度も頭をよぎらなかったと言えば嘘になるのではないか?
 
私は今ひとりで暮らしている。
母さんに「バイバイ」と言って家を出た後、もしかしたらもう二度と帰って来れないかもなと思った。
だけれど、その予感が絶対に当たって欲しくないなとも同時に思った。
そういうものだろう?
 
 
離れて暮らすということは、本当に何があってもそのあとの「お知らせ」でしかわからないわけであって、そのときその場にいて守ってやることも顔を見てゆっくり話を聞いてやることも何も出来ない。
その人はそこにはおらず、違う場所で生きているのだから。
 
今年はたくさんの好きな人たちの誕生日を、顔を見ないで祝った。
メールというとてつもなく便利なものが今この世にはある。
それは大好きな人から来ると温かみを帯びる不思議な物体だ。
 
けれどそれは離れて暮らす人間にとっての誰かの無事を知る手段に過ぎなくて、実際に目で見て触れるあの歓びに比べたら、どれだけ小さいのかもよくわからない。
会いたい、会って話したい。
会えなくても、自転車で10分で駆けて行ける距離だと感じられるだけで、人間は心に安堵を持てるのだから不思議である。
 
 
それが出来ない距離に、私の大事な人たちがいる。
 
 
「誕生日おめでとう」
 
そんな大切な言葉ですら面と向かって言えない距離にいる。
 
 
 
そのことが悲しくて淋しくて、けれども心のどこかではもう諦めがついていて、それを受け入れているのがさらに悔しくて、たまらない。
私が今ここで一人であるように、どこかで誰かがもしかしたら誕生日を一人で過ごしているかも知れないと思うと悔しくてたまらない。
こんなに私はあなたが好きだよと言いたい。声を大にして言いたい。
 
けれど私はその人の側にはいない。
ただ、今ここで生きているだけだ。
 
 
 
誰かと離れてしまうと淋しくなるというのなら、初めから出会わなければよかったのではないか?
ずっと側にいる人とだけ出会っていれば、ずっとこんな想いもせずに笑っていられた。
 
もし9.11事件に自分の家族を送り出してしまった人が、その日も側にいたなら?
 
一緒に死ねたのに?
 
 
 ◇
 
B'zに「Happy Birthday」という歌がある。
私はそしてまた、彼らに気づかされる。
 
 
「Happy Birthday Happy Birthday
 Happy Birthday アリガトウ
 会えてよかったよ」

 
 
Happy Birthdayの日にアリガトウという詞がある歌は、私は知らなかった。
私はけれど誕生日に「おめでとう」と同じぐらい「ありがとう」と思う人間だったので、この歌がとてもとても好きだ。
 
ありがとう。
会えてよかった。
 
 
目の前にその人がいなくても、その人と出会って話して笑い合って、そして交わしたメールの数だけ、その人との思い出は増えて行く。
そういう単純で至極当たり前な事実でさえたまに見失う私に、その歌が心地よく響く。
 
ずっと一緒にいるために生まれてきたわけじゃない。
 
それなのに一緒にいてくれるから嬉しいのだ。
 
 
 
何かがあって一緒にいられなくなること。
それは、あまりにも悲しくて苦しくて堪え難い。
だけれども、最初から一緒にいるために生まれてきた人間などいないように、最初から離れてしまうために生まれてきた人間もいない。
それは起こりうる未来ではあるけれども、そして起こりえた過去ではあるものの、それを悲しんで苦しんでどうしようも出来ないままでは、誰も何も出来ない・・・
 
前に、進まなければいけない。
 
 
 
 ◇
 
一緒に死ぬなんて。
一緒に死んだわけじゃないから、今私はここにいるんだ。
その人が側にいないことは悲しい。
そして今その人が側にいるとしても、もしかしたら明日には、いなくなっているかも知れない。
 
だから今ここにいることがたまらなく嬉しいんだ。
それをとにかく感謝したくなるんだ。

 
そしてそれを1年に1回、大きく考えさせてくれる日が、誕生日なんだと思う。
その人に固有の特別な日。
その人だけの日。
 
 
「生まれてきてくれてありがとう。
 今ここにいてくれてありがとう。」

 
 
最大の感謝と幸せを愛するあなたに。
 
 
これが2006年9月11日に19歳の私が思うこと。
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