V A I O 57 「悠ッ……」 手の次に置かれたのは、頭だった。あまりにもの突然の感触に俺の身体は震えた。 ずっと待ち望んでいた感触。失いたくないと願った感触。…俺を拒絶したのに、また戻ってきた…。 「会いたかった…」 それは、俺だ。俺の方だ。 会って、話して、触って、抱き締めたかった。その香りを感じたかった。俺の名前をその音色が奏でると、俺の全身の血が巡り巡った。視界が急に明るくなり、遠くまで見渡せるようになった。 「ずっと、こうしてたいよ……」 俺の背中に顔を摺り寄せる、雪。俺の身体はもう、動けなかった。変な痺れが全身を襲っていた。 「お前の側に、いてもいいのか…?」 掠れながらも出た言葉は、そんなものだった。心から駄目だ。『いてもいいのか…?』なんて…雪の前になるとどうしてここまで弱いんだ、俺は。 雪を想うとそんな気持ちしか湧かなくなる。雪を想うと自分への自信があっという間に、なくなる。 「当たり前じゃない…」 さらに俺の身体をぎゅーっと雪は抱き締めた。俺は雪の顔を見なかった。雪を見てしまえば、理性なんて全て忘れて、雪の身体が壊れるまで、きつく抱き締めてしまいそうだったからだ。 水無月皓が笑っているのが見えた。仲藤の無表情な顔も見えた。どうでもよかった。 また、会えた。 こんなに欲している女にやっと会えた。会えた。 よく考えてみると…たった数時間だったりするが…俺にとっては、無限の時間に思えた。 雪からの言葉。俺の浮ついた心。そして水無月皓の手に雪があるということ。 たとえ踊らされているとしても…たとえ水無月皓の手の中にいるとしても。 俺は雪をもう離せない。絶対に。 「どうだ。」 皓がにやついたまま、言った。雪の感触は変わらず背中にあった。 皓を見つめる自分の顔よりも、雪の感触がある背中の方が緊張していた。 「何がだ。」 俺は皓を見ず、ただ機械の端を見つめながら答えた。ともすれば雪を抱き締めて全てを奪ってしまいそうな衝動を抑えて。 「…雪と会わせてやったじゃないか。」 「会わせてくれるだけなのか。」 「はっはっ。…返してやるさ。」 笑いながら軽く言う皓。皓にとってはただの所詮こんなこと、ぐらいにしか思われていないらしい。 そして、その言葉に一番反応したのは雪だった。俺の背中から雪の感触が消えた。 その代わり、俺の目の前に雪の身体が現われた。 生きて、動いている…雪。雪の意志で。 俺は、目を閉じた。雪を皓の前から隠したかった。…声だけが、聞こえた。 「ッ…本当なの!?」 「あぁ、本当だ。」 「私に…今回は何したの?」 「さぁな。」 仲藤の姿が見えなくなった。皓がじっと雪を見つめている。雪は、皓からふと目をそらした。 「まぁ、貴方には…何も言えないけど、実際。」 「…?」 俺が目を開けて、怪訝な表情で雪を見つめると、雪は慌てて首を振った。 「んん!なんでもないのっ!悠は気にしちゃ駄目だってばぁ!!」 正直、一生懸命何かを隠そうとしているのはわかった。…が、久しぶりに目を合わせた雪は、異常なほど可愛かった。俺は雪が隠そうとするのなら、もう何も聞く気になれなかった。 「…ゆ」 「雪。」 俺が雪の名前を呼ぼうとしたら、いきなり皓に割り込まれた。 「なぁに?」 「…くくっ…可愛くなったな。」 笑いながら、確かに皓は雪を可愛いと言った。しかし、雪は何も笑っていなかった。それどころか、思いつめた顔で一点を見つめていた。 「…あのころとは大違いだ。やはり、誰のおかげかな?」 「うるさい。」 そう、言葉だけを吐き捨てる。 「ははは、おとうさんにそんな言葉づかいはよくないな。…お前の愛しの悠に言ってしまうよ?」 「やめてよ!!!」 雪がいきなり皓に怒鳴った。雪は皓を睨みつけている。心なしか涙目に見えた。何を言おうとしているんだ?かなり気になった。雪のことは何でも知りたい。何も、何も隠さないで欲しい。――しかし、雪が教えたくないと言っているのならっ…俺は、聞かない。絶対聞かない。雪の意志の方が、俺なんかの好奇心より…何より、ずっと大切だ。 「…まぁ、そう怒るな。最初、俺が『可愛い』と褒めてやったんだぞ?」 「あんたが褒めてるのは私じゃない。」 「…そうだな。」 笑った。水無月皓は声を上げて笑った。 一体、なら誰を褒めていたと言うんだ?雪の顔である結菜、…それとも水無月皓の腕自体をか。 「帰るがいい。」 「それ、本当なわけ?」 「もちろんだ。俺は嘘は…言うが、たまには本当のことも言う。」 「ふぅん。」 今、ここにいる雪は…皓の前での雪は、少しだけ、俺の前での雪と雰囲気が違っていた。俺の前では、何も知らない…そう、真っ白の純粋無垢な…それこそ雪のようなふわふわした女なのだが…今、皓と喋っている雪には刺々しさがあった。 「じゃ、悠!」 突然後ろを振り向かれて俺は心底驚いた。 「な…んだ。」 「…すぐ行こう?私はこんな場所にいたくないの。悠ならわかってくれるでしょ?」 「………。あぁ。…まだ、やるべきことはたくさんあるが―――――…お前がそう言うのなら、俺は行く。」 「ありがとう。…ごめんね。」 思わず言ってしまった言葉だったが、あとから考えると少し嫌味っぽくて泣けてきた。雪の『ごめんね』が本当にすまなさそうで、切なかった。 「帰ろうよ、悠。」 雪がそう言って差し伸べる手を、掴んで走っていきたかった。誰にも雪を晒さないまま、ずっと山奥に閉じ込めておきたかった。 「あぁ。」 答える口調。俺はこんな喋り方をしていたか?俺はどんな人間だったか? 雪といると自分が見えなくなる。あまりにも雪に依存しすぎている自分の存在しかわからなくなる。 雪の言葉にはなんでも『はい』と答えたい。何も反対などしたくない。雪が望むのなら、全てをしよう。全てを。 雪をどんな男からも隠したい。しかし、雪が外に出たいというのなら許してしまうだろう。俺にとっては雪の意志が全てだ。 「待ってるからな。」 皓が笑いながら、言う。 俺は笑えない。笑うというのはどうするんだったか…?忘れてしまった。 たった数時間雪と会ってないだけで忘れてしまった。 しかし、俺は雪と共に走り出してから、後ろを振り向き、こう言った。 「また、来る。」 * * * そのあと、仲藤に連れられ、俺たちは雪山の途中まで戻ってきた。あの白い膜を通り抜けたところで、仲藤は皓の元へ戻ると言った。 「…ここで。」 仲藤の顔を見ると、さっきの仲藤の言葉を思い出した。頭で考えるより先に、声が出た。 「ちょっと、待て。」 「何だぁ?」 仲藤は嫌そうな顔で振り向いた。早く皓の元へ行かせてくれ、と言わんばかりに。 「…お前、地球を救いたいのなら、皓の元を今から去ればいいじゃないのか?」 「どうやって。」 「俺たちと、今一緒に来るとか。」 仲藤は鼻で笑った。 「それができりゃ苦労はしない。」 「?」 「…俺の身体は、水無月皓のものだ。」 仲藤は膜を触りながら言った。 「俺はな…沢山の動物と一緒なんだ。そう、コイツみたいにな。」 「コイツ?」 「…この、膜だ。この膜が何だったものか、お前らにわかるか?」 俺と雪は無言で首を振った。 「…カバだよ。」 「か、かばなの!?」 雪が驚いて声を出す。 「そうさ。しかし、自我を完全に破壊され、遺伝子を組替えられ――それが続けられた、5代目だ。皮に意思が…水無月皓の意思が反映し、強度もティッシュペーパー並から鉄ほどまで変化するという種類が開発された。そいつらから皮をもぎ取り、そして培養液を与えながら扱っているのが…コイツだ。」 「そんな…」 「そう、あいつにとっては生き物は全て道具。俺ももちろんこうやって今ここにいるけど、身体の中には色々仕掛けられているからな。…水無月雪、さっきは悪かった。」 「あ、いえいえ。」 少し頭を下げる仲藤に、雪はペコペコ頭を下げた。 「…どうしたんだ?」 「ぁ…いや…そのぅ…」 「皓がお前が水無月結菜とキスしているシーンを雪に見せたあと、俺の思考を弄り、雪と同じことをさせようとしたんだ。」 「なっ!?」 「大丈夫大丈夫!私たち、何もしてないからっ。…ただ、私が仲藤さんに猛烈な頭突きを食らわせただけで…」 オイ。 と、突っ込みたかったが抑えた。何にせよ、雪には何もなかったのか…よかった。 もし、仲藤が雪と何かしていたら…俺は、今、どうしたのだろう。仲藤の前でこれ見よがしに俺の方が…雪と……か。そんなことは雪がさせないか。ならやはり仲藤を殴り飛ばすのだろうか。これでもかと言った感じで。しかし、仲藤がそれで死んだとしても、雪に対する汚れが消えるわけじゃないから…結局、俺は何もしないかもしれない。 それにしても…、雪は俺が結菜としたことを、知っていたのか―――――。 「そう、それから『仲藤』が戻ってきた。今までは皓に操られた『ヨシヒサ』ばかりが俺を占領していたがな。…やっと『仲藤』に戻れた。『VAIO』と鷹多悠を憎む、俺に。」 「ッ…!?」 雪が息を飲んだ。しかし、俺は妹だということは本当だったということを理解しただけだった。…それでも、俺を今殺そうとはしないのか…。 仲藤は俺を一瞬憎悪の表情で睨んだあと、また雪に向かって頭を下げた。 「頭に衝撃を与えてくれたこと、非常に感謝している。」 「いや…いいですってば。」 雪が恥ずかしそうに俯きながら言う。あぁ…愛しくてしょうがない。どうして仲藤なんかにそんな表情を見せるんだ。 「…そろそろ、俺たちは行こうと思う。」 俺は、兎に角雪と仲藤にこれ以上一緒にいるなと言いたかった。しかし、それは出来ない――そう思った瞬間、この言葉を発していた。俺は、雪を無理やり仲藤と引き離そうとした。 「あぁ。…そうだな。」 仲藤は空を仰いだ。空は、曇りに曇っていて…いや、少し雪がちらついていた。 「寒いはずだな…」 息が白い。凍り付いているのは髪に付いている水分か。髪の毛がやけに白く見えた。 「…じゃあ、また。」 「あぁ。」 仲藤は背を向け、また膜の中に消えていった。仲藤にとって、『仲藤』という感情が戻ったことは…いいことだったのか。 何も知らずに、水無月皓に操られていた時の方が幸せだったんじゃないのか―――――。 そんな仲藤に対して、嫉妬の念を抱き、微妙な態度を取ってしまった自分がかなり恥ずかしくなった。こんな俺は絶対に雪に見られたくないと思った。…結菜との、あの行為よりも。 「…行く?」 雪の言葉に俺は無言で頷いた。 俺たちは、歩き出した。…隔離施設を目指して。 コメント: 2004.02.22.UP☆★☆ もう、皓のトコから帰っちゃった…。 さぁて、頑張れはーくん。(他人事かよ) |