V A I O 60 
 
 
 
 
 
 
「ハルカ…だ、ださいよ…」
帰って早々、結希に言われた。
「ん?――あぁ。」
自分の姿を見て、最もだと思った。なぜなら、俺のスーツのズボンの裾は擦り切れて、七部丈状態になっていたのだから。
「買い換えるよ。」
俺は結希の頭をくしゃっと撫でて、そう言った。結希が笑った。
「ごめんね、まず『おかえりなさい』だったね。」
あぁ、そういえば。
しかし…「おかえり」という言葉を発するより何より、俺のスーツが気になるっていうぐらい酷いのか…。
「いや。…すぐに替えるから。」
新しかったんだけどな…。俺は心の中で溜息を吐いた。でも、雪には…代えられない。
「ハルカ?」
「……ん…?」
「何か、元気ない?」
心配そうに俺の目を覗き込む結希。俺は、少し微笑んで、首を振った。
「いや、そんなことはない。」
「…そっか。」
少し不満そうに頷く、結希。しかし、すぐにまた俺の目を見つめて…言った。
「そいえば、お姉ちゃんは?」
「――雪は、さっきまでここにいたじゃないか。」
「雪お姉ちゃんじゃなくて、結加お姉ちゃん。」
俺の隣、後ろを見る結希。そこに結加がいるはずも…ない。
「…ちょっと出てる。」
結希は、驚いたように目を丸くした。
「『VAIO』感染者なのに!?」
「……大丈夫、一般の人たちに影響はない場所だ。」
結希は、また、怪訝そうに頷いた。
「…わかった。」


隔離施設までは、人気のない道を徒歩で行かなければいけないのかと思ったら、結菜が車を見つけておいてくれたらしく、それに乗った。まぁ、おそらくはつい数時間前まで持ち主の生きていた車だろうが――。
おかげで、そう時間がかからずに着けたのだ。
ちなみに、赤根博士からまだ連絡は、ない。


「悠。」
「あぁ…穂。」
結希と離れて、近くの廊下を歩いていた。誰もいない、機械質な廊下だったが、側の部屋…まぁ、トイレだが…から、出てきた穂と鉢合わせた。ずっと憎いと思っていた兄が、今日はなんだか懐かしいとさえ思えた。
「今日、面白い奴らが来た。」
「面白い奴ら?」
穂は笑った。
「そ。コソコソコソコソと、隔離施設の周りを探索してやがった。だから、声かけてやったら逃げた。」
「探索?」
「おう。じーっと俺たちのほう見て、何か右耳を押さえてた。」
「…右耳?」
ここ最近の、雪の姿が重なった。右耳を押さえて、蹲る雪の姿と。
「何かと通信してるような…そんな、感じだ。」
「そうか。」
俺は俯いた。…もしかしたら、それは…皓からの働きかけか?要するに、やっぱりゆっくりはしていられないと言うことだろうか。隔離施設本体を狙ってくるなんて…。
俺が色々考えていたら、穂が少し笑った。
「どうして、お前はそうなんだろうな。」
俺は顔を上げた。穂の笑顔は、どちらかというと…『苦笑』という感じだった。
「何が。」
「どうして、俺を兄と認めてくれないんだろうな。」
「それは…」
俺は穂の目を見つめ返した。穂は、今度は悲しそうに笑った。
「嘘だよ。俺が何したか、忘れてるわけじゃねえからさ。」
穂が、何をしたのか。忘れてるわけじゃない。
――けれど。
「もう、仕方がないから。」
「あ?」
「……忘れはしない。…けど、もうそんなことも言っていられない。」
「悠?」
「兄さん、今は…全員の協力がいるんだ。」
「悠――?」
俺はふっと笑った。
「忘れられない。大切な人の死は。…けれど、今を生きる支障にするわけにはいかないんだ。」
忘れられるわけがない。
初めての俺にとっての感情。
忘れられない。
忘れられない。蘇ってくる。
あの日の―――――悪夢。


   +   +   +


俺は、走っていた。

駄目だ――早く、早く、早く着かなければ!!!
「ぅぐぁ…助けて…くれっ……」
人が俺に向かって倒れこんできた。
顔面は蒼白。息も明らかに乱れている。しかし、今の俺にはその男を助けてやれるような余裕がなかった。
兄に――穂に、追いつかなければ。
兄さんは…目が、見えるようになってから、母さんたちの元へ行くはずだ。『VAIO』を身体に移植してから。
兄さんは毒を放つ。母さんも父さんも、弟の都も死んでしまう。
なんとしてもっ…なんとしても、兄さんが病院に着くまでに追いつかなくてはいけなかった。先に病院に着かなくてはいけなかった。
あぁ、どうして道路にはこんなにも人間がいるんだっ…邪魔だっ…俺は、一刻の猶予もないのに!!
「おい、お前!!」
それは、タクシーに乗った…30代半ば程度の男だった。
俺は、走りながらそっちを見た。タクシーは俺に合わせてゆっくり走っていた。
「急いでるんだろ?」
「金がないんだ。」
俺は即答した。しかし、その男はニヤッと笑った。
「構わん。乗れよ。」
男は無線を切った。そして、ドアが開いた。
どうして――その男が、俺に協力してくれたのかはわからなかった。けれど、今の俺は兎に角急いでいた。
「ありがとう。」
俺はそう言いながらそのタクシーに乗り込んだ。
「どこまで?」
「地球中央病院。」
「そうか。」
男は、それだけ言うと、いきなり追い越し車線に車線変更すると、いっきにアクセルを踏み込んだ。
「ぅおっ、」
俺がいきなりの衝撃に少し驚くと、男は笑った。
「すまねぇな。急いでるんだろ?」
「あぁ、ありがたい。」
俺は本当に感謝した。男はまた笑った。
「間に合うと、いいな。」
少しだけ、勘違いをしているらしかった。まぁ、病院、と聞けばそう思うのは普通か。
気持ちだけが急いた。
男はそれ以上は何も言わず、ただメーターを100km/h以上にして走り続けた。

そして、着いた。
「本当にありがとう。」
俺は男にむかって頭を下げた。
こいつのおかげで――一体どれだけ早く着いたのだろう。もし、穂が車に乗っていなかったら…明らかに、俺のほうが早い。
「おいおい、そんな暇あったら早く行けよ。」
「ありがとう。」
俺がもう一度男に礼を言って、開いたドアから下りようとしたときだった。
「ぅ…ぐぁ…?」
どさっ…という音と共に、男が、倒れた。
「お、おい!!」
「……んだ……?…く、くる……し………ぃ…。」
男は助手席の上で、顔を上げた。
顔面、蒼白―――――。
「……『VAIO』!?」
俺は辺りを見回した。
何人も、…いや、何十人もが倒れていた。
「何処に……!?」
俺は辺りをもう一度見回した。
しかし、何処にいるのかがわからなかった。
そのときの俺の目に飛び込んできたのは――『地球中央病院』の文字。
そうか、ここは病院じゃないかっ!!
「待っててくれ、すぐに……すぐに、医者を呼んでくるから!!」
俺は男にそう言い残すと、病院への階段を駆け上がった。

 
 
 
コメント:
2004.05.12.UP☆★☆
唐突に始まった過去の話。
ついに60話。これもそれもあれも皆様のおかげです。

 
 
61話へ。
 
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